許すこと許されることは日常的に起こっている。
誰かの間違いを許して水に流すこともあれば、
自分が間違ってしまったことに許しを請うこともある。
逆に間違いを許せずにいることも、
間違いを認めずに自分の正当性を主張することもある。
こういった許しの本質とは何だろうか。
傷つき傷つけられたことへの感情を収めることだ。
間違いを責める側も責められる側も怒りや罪悪感に満ちている。
この感情は苦しみを生み続ける。
この苦しみを解放するのが許しだ。
私たちは許すことや許されることでお互いの苦しみを解放させる。
それでも傷ついた気持ちが簡単に癒やされるとは限らない。
それは深い傷となって、心のどこかでくすぶり続けるかもしれない。
思考の水平線を超えたところは慈悲に満ちている。
そこはひとつの存在としてあるところだ。
そのため相互関係というものがない。
相互関係がないので、許すことも許されることもない。
傷つくことも傷つけることもない。
その場所はすべてがひとつとしてあるところであり、
傷ついた者がそこに触れれば慈悲深い癒やしとなる。
そこは移り変わる人の心とは違う。
許したり、許されたりする心の動きがあるのではない。
そこははじめからただひとつとして動くことのない存在だ。
すべての人がこの存在につながっている。
すべての人はこのたった一人の存在だ。
すべてがひとつとして存在しているなら、
傷つくものも、傷付けられるものもいない。
相互関係で傷つく者にとって、そこは傷を癒す場所だ。
この自分の存在を知れば、傷などはじめからなかったと知る。
そこにいてただひとつとして存在している。