私たちは自分自身のことをあまり知らない。
何故この世界に生まれてきたのか。
この世界で何をしたらいいのか。
自分とは誰なのか。
自分のことで分かることは、
身体があること、考えることができること、
どんな能力があるか、どんなことを知っているかだ。
病気をすれば、自分が苦しんでいると思う。
どうすれば健康でいられるかを考える。
病気にならない身体になる。
健康でいられる方法を知る。
そこに物事があり、思考があり、経験があり、記憶がある。
それらをまとめて自分としていく。
それで身体と思考が誰なのか区別されている。
区別はされているが、
誰の身体なのか、誰の思考なのかを、
名前が示しているわけではない。
名前が付く前から身体も思考もあった。
名前が自分自身なのではない。
目を閉じて自分が何処にいるか探ってみる。
身体や思考ではない自分自身を見つけてみる。
思考の水平線を超えたところに本当の自分自身がいる。
それは対象物ではない。
身体や思考、名前は対象物だ。
対象物なので本当の自分自身ではない。
それは主体として存在している。
主体として存在しているので示すことができない。
目で目を見ることができないように、
それを確認することはできず、そこにいると感じるしかない。
確かにそこに自分は存在している。
この存在を消し去ろうとしてもできない。
この存在を知ることが自分を知ることだ。
誰でもこの自分自身を知ることができる。
だが誰もこの自分自身を知ろうとしない。
それどころか、身体や思考や名前を
本当の自分自身にしようとしている。
自分自身はつくりあげるものではない。
そこにいると知るものだ。
それがあるがままの自分自身であり、
自分自身と呼べる唯一の存在だ。