私が求めているのは神になることではなく、
現実的な人生が満たされることです。
よい仕事をして、よい人に巡り会い、
心配も不自由もなく生きていきたいのです。
私の願いはこんなささやかなものでいいのです。
私は癒やされることを求めています。
傷ついた心を温めてくれる神の手が必要です。
私を満たされるところへと導き、
人生を実り豊かに全うできる満足に触れたいと思っています。
ただ私はいつも傷つき、十分ではないという思いでいっぱいです。
いつも迷っていて、どう生きていけばいいか分からず、
人生を思うようにしたいと思っても、必ず障害が現れます。
それは人間として生きている以上、きっと避けられないことなのでしょう。
そんな悲しみや苦悩を人生のささやかな楽しみで癒しています。
ほんとうに私は神への道に導かれているのでしょうか。
自分が神などとは思いもよらないことです。
神であることが普通のことなどというのは神だから言えることです。
神は天空からいつも私を守ってくれる存在でいて欲しいのです。
そんな私が神への道を歩み、自分が神だとどうして理解できるでしょうか。
そんなことは選ばれた誰かがすればいいことで、私には縁がありません。
私には神に触れる能力などないのです。
神の深遠な言葉で心を癒やし、人生のつらいときを生き抜くことができれば満足です。
神の存在を信じて、いつも守られていると感じられるだけで十分だと感じます。
私が神になってしまえば、そんな癒やしも守護も得られなくなってしまいます。
それが恐ろしく感じます。
神になるということなど、
丸裸で森の奥に捨てられるような、そんな絶望的な感じがします。
私にとって神になることは神から見捨てられることに他なりません。
そんなことを私は望んでいないのです。
私が何で出来ているか、私が何者なのかは重要ではありません。
たとえそれが神だとしてもです。
そんなことを知っても、私の悲しみが癒やされることはないでしょう。
むしろ神から見捨てられることで、悲しみは深くなります。
私の幸福は何の心配もなく娯楽に時間を費やすことだったりします。
思いっきり笑ったり、安心して眠ったり、
五感を満たす快楽に浸ることだったりします。
私の満足はその程度のことです。
それを飛び越えて神になることなど、私にとっては飛躍しすぎです。
こうして神が私に語ってくれること自体が救いです。
私は神の側に行きたくないと思っています。
ささやかなことで満足する人生で十分なのです。
神のお導きはありがたいと思いますが、
話を聞くのと自分がするのとではまったく意味が違います。
私は神の話を聞くことで、それが自分にとって現実的でなくても、
十分に満足しています。
その満足で十分なのです。
神の話を真に受けて、それを探求してしまえば、ある一線を越えてしまいます。
それは新たな苦しみの始まりです。
だから神のお話を聞いて満足することでとどめておきたいのです。
こんな私ではいけないでしょうか。
人間などそんなものなのではないでしょうか。