瞑想とは何のためにするのだろうか。
瞑想は幸せになるためにする。
私たちは自分を幸せにしてくれる何かをそこで見つけたいから瞑想をする。
私たちは瞑想の神秘的な力によって、
身体が心地よくなること、心が幸福感に包まれることを期待する。
心の中で心地よい何かを見たり、聞いたり、感じたりする体験をすると、
それによって幸せな何かに近づいていると思う。
そうして精神的に自分を満たしてくれるひとつの手法として瞑想をする。
私たちは世界において満足したり、気持ちいい経験をすることに限界を感じている。
どうしても思うように満足することができない。
世界はあまりにも不確定要素が多すぎるため手に負えないのだ。
そこで幸せを感じることができても、それは不安定で頼りない。
すぐに他の要素によって潰されてしまう。
私たちはそれを潰されまいと抵抗するが、その自らの抵抗によって幸せを失うことさえある。
世界で幸せになることはつらい作業だ。
そこで私たちは幸せの場所を世界ではなく心に求めるようになる。
自分の心の中だけは自分でコントロールできると思うのだ。
そして自分の心の中に幸せを実現して、そして満たされようとする。
そこには様々な思考や感情があふれていて、私たちはそれに翻弄されてしまう。
私たちはそうした思考や感情を取り除こうと努力する。
あるいは思考をより良い思考へ、感情をより良い感情へと導こうともする。
そのために瞑想の中でより良い体験を求めるようになる。
確かに心地いい体験は心の中で起こる。
それでも思考や感情が勝手気ままに振舞うことを抑えられない。
それに気がついて、また静かな瞑想に戻ろうとするが、
落ち着かなくなって瞑想を続けられなくなる。
いくら瞑想をしても相変わらず世界は不確定要素を繰り出してきて、私たちの人生を翻弄する。
私たちは幸せになるために瞑想を始めたのに、結局世界も心もコントロールすることができないままだ。
瞑想を始めた分、心をコントロールできないという不確定要素が追加されて、前以上に大変になっている。
私たちはここでひとつの結論を出す。
瞑想は役に立たないという結論だ。
瞑想は自分を幸せにするどころか、混乱を増やすだけだった。
瞑想など止めて世界のことを何とかすることに心を向けたほうがよっぽど効果的だと思う。
私たちの求めている幸せとは何なのだろうか。
幸せとは心も体も満たされて心地よく、それを誰にも邪魔されることなく、
何事にも壊されることなく、それがずっと続いていくことだ。
もちろん何が満たされることで心地いいことかは人それぞれに違うかもしれない。
私たちはそれぞれに満たされ心地よくなる何かを求める。
それを世界に求め、そして心に求めた。
結果として、どちらにも幸せを実現することはできなかった。
そう結論づければ、瞑想などに時間を費やすなら、世界で一生懸命生きていく方がいいと思う。
そうすれば一時的でも満たされる時間があるのだ。
悟りや意識の目覚めなどはただのファンタジーで現実的ではないと背を向ける。
幸せになるために瞑想をすることは間違いではないが、
マインドが変化するものの中に幸せを求めるなら、私たちは幸せの場所を見失ったままだ。
私たちの揺るぎない真実とは自分が存在するということであり、
その存在にマインドが融合したとき、私たちは初めて満たされることができる。
このことはマインドの判断や分析で理解できる範囲を超えている。
存在とはどんな時にも変わることなく、動くことなく、ひとつとして遍在している。
それが自分自身になるとき、私たちは世界や心の変化に影響されることなく存在している。
そこがマインドの求めていた幸せの場所だ。
マインドはあれこれと存在を分析するかもしれないが、
何をしても存在は壊れることも失われることもない。
瞑想によってマインドの判断を超えたとき、私たちはこの存在という場所に導かれる。
そこに至って初めて、私たちは何のために瞑想をしていたかを理解する。