この世界とは何だろうか。
私たちは目の前に世界があると思っている。
この世界はとてもリアルで、そこで生きている自分の身体も考えもリアルだ。
そのためこの身体は自分であり、考えも自分の考えであり、
世界から集めることのできる自分のものがあると思っている。
私たちにとって、自分で見ることができるもの、聞くことができるもの、
嗅ぐことができるもの、味わうことができるもの、
触れることができるものが世界のすべてだ。
だが世界は私たちが見ることのできる景色だけとは限らない。
この身体はほとんどが水分だ。
身体は水分子でできている。
そして水分子は水素原子と酸素原子でできている。
原子は電子と原子核によってできている。
ここまで細かく見ていくとどんな景色だろうか。
空間の中に原子核が浮かんでいて、その周りを電子が飛んでいる。
その世界ではこの原子は私であの電子は誰かのものという個別性は失われている。
私たちはそこに小さな原子核とその周りを飛んでいる更に小さな電子、
原子核と電子の間の空間とそれを存在させている広大な空間を見るだけだ。
その世界は私たちが五感で捉えている世界とはまるで違っている。
だがそれもまたこの世界の現実だ。
そこに私たちが現実として知っている街並みや人の顔はどこにもなく、
すべては広大な空間での小さな粒とその運動があるだけだ。
だがなぜ私たちはこんな幻想を作り出したのだろうか。
この宇宙ができる前は何もなかった。
そこに小さな点が現れ、それが爆発的に広がっていって宇宙になった。
なぜ何もないところに小さな点ができたのだろうか。
それには理由がない。
もしかすると理由があるのかもしれないが、
あったとしても私たちがそれを知ることはできない。
つまり、私たちがここに存在する理由や、
世界がどのように見えるのかの理由も人の理解の地平線を超えいてる。
私たちにとって、世界の真実はつかみ所がなく混沌としているように感じる。
そんななかでも確かなことがある。それは存在するということだ。
私たちは存在し、世界は存在し、原子核も存在する。
考えもイメージも存在し、くだらないことも高尚なことも存在する。
すべては存在するのだ。
これが私たちが偽りなく知り得るすべてだ。
そしてそれが宇宙の真理のすべてでもある。
自分が存在することなど当たり前のことのようだが、
私たちはこの存在についてあまり分かっていない。
いつも世界に何が存在するのかに目を向けていて存在そのものを無視している。
存在を無視しているということは自分自身を無視しているということだ。
自分のことを無視して、世界のことを知ろうとしているのが私たちなのだ。
私たちが存在を無視して生きていても、存在は存在している。
存在を無視していても、それが消えることはない。
世界のすべては存在が成り立たせているのだ。
そして私たちはいつでも自分の存在を理解することができる。
いつか自分が存在することを無視するのをやめて自分に向き合う。
そこで自分がここに存在として存在することを知る。
そのときすべての中に存在をリアルに感じるだろう。
それが私たちの最大の可能性であり、生きることの彼岸にあるものだ。