私たちにとっての現実とは何だろうか。
世界は現実のように思える。
目に見えるものがあり、聞こえるものがあり、
香りがあり、触れるものがある。
それが心を満たしてくれたり、傷をつけていったりする。
そうした感覚が世界を現実だと感じさせている。
私たちは感覚と自分自身を重ねあわせて現実にしている。
そうして感覚と自分がひとつの現実になっているため、
感覚は自分であり、その感覚から起こる感情も自分だと信じている。
そのため自分に良い感覚をもたらしてくれる現実を強く求めている。
だが、感覚は本当に現実なのだろうか。
私たちはそれを現実だと信じて疑わないが、
それは感覚が現実だという仮定に基づくものだ。
もちろん私たち現実に感覚を感じている。
感覚があるから、私たちは世界に存在していると知っている。
そのため私たちは感覚を絶対的なものとしている。
だが、感覚は移りゆくものだ。
色々なことに焦点を当てて、常に動き回っている。
そうすることが自分にとっての現実なのかもしれない。
それが現実とするなら、
私たちは無数の感覚として生きてることになる。
無数の感覚に任せたなら、私たちはどんな現実にも落ち着くことができない。
この感覚が自分の現実かと思えば、次の瞬間には変わっているのだ。
私たちはそんな自分の現実に満足してるわけではない。
落ち着くことができる自分自身の現実を知りたいと思っている。
私たちはどんなことが世界に起こっても、
変わらない自分でいることが自分自身の現実であって欲しいのだ。
たくさんの移り変わる世界の現象の中にあっても、
その中心にある完全に信じられる現実でありたい。
知りたいことは、たったひとつの現実だ。
私たちはそれを世界に求めて、焦点を巡らせている。
だが、その現実は世界の中にはない。
自分自身の心の中にそれは在る。
世界の中で信じられることは、自分が存在するということだけだ。
世界は移り変わっていくが、
自がそこにいることだけは変わらないこととして続いている。
私たちが疑いなくすぐに理解できる現実は、
自分自身がここに存在しているということだ。
そこからもっと深い理解に至ると、
存在することだけが現実だと知る。
世界の姿形は移り変わり、生まれたものは失われていく。
だが、存在そのものはこの世界から失われることがない。
そして世界に移り変わる物事があることも、
自分自身の変わらない存在を通して理解することができる。
現実を知ることとは、自分自身を知ることであり、
そこに自分自身が存在していて、
存在が自分自身を支えていると知ることだ。
その存在が自分自身の核心なのだ。
その存在は変わることがなく、
自分だけでなくあらゆる世界の現実を支えている。
自分の中心の現実はすべての世界の物事の中心でもある。
自分が存在だと知ったとき、世界のすべてが自分自身だと知り、
焦点を合わせるものすべてが自分になる。
私たちは世界の移り変わる姿形ではなく、その存在に焦点を当てている。
そうして私たちは世界に自分自身を見つける。
これが今も昔も変わらず、
この時が始まったときから続いているひとつの現実なのだ。
