瞑想で理解したことを伝えていくことは難しい。
その理解の真髄は言葉で伝えることができない。
その理解への道を示すことはできるが、
理解そのものを示すことができないのだ。
それを理解した人は、それを言葉で伝えようとする。
それはどういうことなのかと人に問われるからだ。
人は瞑想で理解できる真髄について知りたいので、
それを知っている人から話を聞きたいのだ。
理解した人は親切心からそれについて話をする。
だが、それは理解そのものではない。
それを聞いた人は、その話が理解だと受け取る。
そして、その言葉通りのこと理解しようとする。
言葉通りのことを理解しようとしても、
理解の真髄に到達することはできない。
ここに理解を伝える難しさがある。
瞑想して、その神を探しなさい。
その神はいつでもそこにいて隠れているわけではない。
その神が自分であり、
神を見つけたとき、あなたは神になる。
私たちはこんな話を聞くと、神を探そうとする。
神を見つけることが、瞑想で得られる理解なのだと信じる。
それは間違いではないが、それで神を見つけることはできない。
神を探しても、決して神を見つけることはできない。
自分自身さえも見つけることはできない。
瞑想の師は間違いを教えたのだろうか。
瞑想の師は正しいことを教えているが、
それは私たちが理解の真髄を知ったときに分かることだ。
そのときになって初めて師は正しかったと知る。
私たちは自分自身の中に神を見つけようとする。
そこで神を見つけるかもしれない。
この光輝く愛の力が神だと思うかもしれない。
だがそれは神ではない。
私たちが見つけたものは神ではない。
瞑想で理解できる真髄は言葉に現すことができない。
言葉にできるものは、どんなものも神ではないのだ。
そう聞くと、私たちは混乱して、
瞑想に失望し、別の道を歩むことを選択するかもしれない。
あるいは、この理解でいいのだと、
無理やりその神を信じ込むようになるかもしれない。
見つけようとしなければ、瞑想の理解は得られない。
だが、見つけようとすると、決してそれは見つからない。
まるで、堂々巡りだ。
この堂々巡りから抜けださなければ、
私たちが瞑想の理解の真髄を知ることはない。
一見、抜け出すことが不可能に思えるこの状態から、
私たちは完全に抜け出すことができる。
理解そのものを言葉にすることはできないが、
そこに至る道を示すことはできる。
私たちはその道に沿って進んでいけばいい。
その道は理解の真髄に到達した人だけが示すことができる。
私たちが瞑想の師に聞くべきことは、
何が瞑想での理解の真髄なのかではなく、
どうすればそこに到達することができるのかということだ。
師にはそこに至る道を指し示してもらうことだ。
それが瞑想で理解の真髄を知った人の伝えていくべきことだ。