2015年4月30日木曜日

冥空のリアル:29:伝えていくべきこと


瞑想で理解したことを伝えていくことは難しい。
その理解の真髄は言葉で伝えることができない。
その理解への道を示すことはできるが、
理解そのものを示すことができないのだ。

それを理解した人は、それを言葉で伝えようとする。
それはどういうことなのかと人に問われるからだ。
人は瞑想で理解できる真髄について知りたいので、
それを知っている人から話を聞きたいのだ。

理解した人は親切心からそれについて話をする。
だが、それは理解そのものではない。
それを聞いた人は、その話が理解だと受け取る。
そして、その言葉通りのこと理解しようとする。
言葉通りのことを理解しようとしても、
理解の真髄に到達することはできない。

ここに理解を伝える難しさがある。

私たちの心の奥には神がいる。
瞑想して、その神を探しなさい。
その神はいつでもそこにいて隠れているわけではない。
その神が自分であり、
神を見つけたとき、あなたは神になる。

私たちはこんな話を聞くと、神を探そうとする。
神を見つけることが、瞑想で得られる理解なのだと信じる。
それは間違いではないが、それで神を見つけることはできない。
神を探しても、決して神を見つけることはできない。
自分自身さえも見つけることはできない。

瞑想の師は間違いを教えたのだろうか。
瞑想の師は正しいことを教えているが、
それは私たちが理解の真髄を知ったときに分かることだ。
そのときになって初めて師は正しかったと知る。

私たちは自分自身の中に神を見つけようとする。
そこで神を見つけるかもしれない。
この光輝く愛の力が神だと思うかもしれない。
だがそれは神ではない。
私たちが見つけたものは神ではない。

瞑想で理解できる真髄は言葉に現すことができない。
言葉にできるものは、どんなものも神ではないのだ。
そう聞くと、私たちは混乱して、
瞑想に失望し、別の道を歩むことを選択するかもしれない。
あるいは、この理解でいいのだと、
無理やりその神を信じ込むようになるかもしれない。

見つけようとしなければ、瞑想の理解は得られない。
だが、見つけようとすると、決してそれは見つからない。
まるで、堂々巡りだ。

この堂々巡りから抜けださなければ、
私たちが瞑想の理解の真髄を知ることはない。

一見、抜け出すことが不可能に思えるこの状態から、
私たちは完全に抜け出すことができる。

理解そのものを言葉にすることはできないが、
そこに至る道を示すことはできる。
私たちはその道に沿って進んでいけばいい。
その道は理解の真髄に到達した人だけが示すことができる。

私たちが瞑想の師に聞くべきことは、
何が瞑想での理解の真髄なのかではなく、
どうすればそこに到達することができるのかということだ。
師にはそこに至る道を指し示してもらうことだ。

それが瞑想で理解の真髄を知った人の伝えていくべきことだ。