この世界はマインドにとって現実だが、意識の存在にとっては幻でしかない。
だが、幻の世界も意識の存在によって創られている。
この世界は現実なのか幻なのか。
常に現在が過去に置き換わっていく世界は、
現在をつかむことができないという点で幻のようなものだ。
これが現実と思っていることでも、
時の流れが、すぐに過去という非現実に変えていく。
いま目の前パソコンや食べ物があると感じていても、
ある領域では、それらは現実ではなくなる。
パソコンも食べ物も、それらはすべて原子の集合体だ。
原子は電子と陽子で出来ている。
陽子は更に小さな素粒子でできている。
つまり、この世界のある領域は素粒子の海のようなものだ。
パソコンも食べ物も素粒子の海では区別がつかず、素粒子の濃淡に過ぎない。
私たちが見ている世界はひとつの面でしかなく、
感覚という限られた情報で見ている世界でしかない。
私がいて相手がそこにいるようでも、
自分も相手もいない世界が同時に存在するのだ。
私たちは現実的にそんな幻のような世界で生きている。
だが、私たちの身体はこの世界を感知し、
マインドはこの世界こそ現実だと思い、
ここでの人生をなんとかしなければならないと奮闘している。
それでも別の領域の世界では何も起こっていない。
私たちが何をしようと、素粒子の海は何も変わらないのだ。
平和であろうと戦争であろうと、裕福であろうと貧乏であろうと、
心地よかろうが悪かろうが、天国だろうと地獄だろうと、
そんなものは存在せず、素粒子の海は何も変わらない。
何も変わらないということは、私たちにとっての現実ではない。
私たちは裕福になって心地いい気持ちになることもあり、
失敗して貧乏になることもある。
この世界は私たちにとって無視できない現実だ。
いくら世界は素粒子の海だと言われても、この現実的な世界の感覚はリアルだ。
だが、私たちは感覚という限定的な世界に閉じ込められているわけではない。
この感覚の世界を突破して、素粒子よりももっと繊細な世界を知ることができる。
この世界の最小構成単位は「存在」だ。
それは科学的に検出されることはない。
なぜなら、それは客観的な対象ではないからだ。
それは主体だ。
この主体こそが、世界の最小構成単位である「存在」なのだ。
私たちは特定の瞑想によって、この主体に触れることができる。
それが可能な理由は、私たちの身体もマインドもこの「存在」で作られているからだ。
自分自身の探求を突き詰めていくと、この「存在」に突き当たる。
この「存在」こそが、主体としての本当の自分自身であり、
それを知れば、身体や思考はその付随物にすぎないことを知る。
そして、自分が世界の最小構成単位である「存在」であることを知ったなら、
私たちは世界のすべてになる。
「存在」は幻想と言われるこの世界をも作っている。
世界が存在すると私たちが感じるのは、それが「存在」で作られているからだ。
私たちの中心にある主体としての小さな点は、
全世界そのものであり、世界を覆い尽くしている最も大きな単位でもある。
表面的な姿形は違えど、「存在」で作られていないものはない。
これがこの宇宙最高の神秘であり、神の奇跡であり、
私たち人間が知り得る最高の英知なのだ。
これを知ることがヨガへの道だ。
どうしたら裕福になれるか、どうしたら健康になれるか、
どうしたら幸福になれるか、どうしたら望みが叶うか、
それらは現実的に大事なことかもしれないが、
私たち自身の真理に比べたら些細なことだ。
私たちはこの自分自身の現実を知るべき時期に来ている。
誰かの話を信じる必要はない。
自分自身の中の真実を信じればいいのだ。
その事実を知ったとしても、私たちの感覚の世界は消えはしない。
そこでも身体として生きていくことになるだろう。
それでもいいのだ。
自分が「存在」だと知っていることが大切なことだ。
ある意味、私たちは二つの世界を生きていくことになる。
ただ、「存在」の世界はすべての中心であり、すべての素材であり、
けっして変わることがないところだ。
私たちが本当に存在しているのは、この「存在」の世界であり、
身体で生きているのは感覚の世界だと知っている。
これがすべての統合された場所から見える景色だ。
